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チャモロ文化村
ここからしばらく走ると、イナラハンのチャモロ文化村に到着する。ソレダット砦から18kmほど走った地点で、島の南端を回り込んで少し北上した海岸線である。ここは古代チャモロ族の家屋と生活を再現した村で、椰子の木陰のあちこちに簡素な昔の家屋が建っている。葉っぱの屋根で作られた素朴な門をくぐって敷地に入る。こんな門が趣があってとても素敵に思えてならない。
 







 チャモロ文化村の入口門















敷地は椰子の生い茂る波打ち際に面していて、今は人影もなくひっそりと古代家屋がたたずんでいる。高い椰子の木がココナツの実をいっぱい実らせているのを眺めていると、ガイドさんがみんなにしつこく注意する。決して椰子の木の下を歩かないようにとの忠告である。ココナツの実が落ちて頭に当たると頭蓋骨骨折で危険な状態になるという。かなりの重さの実だけに、それが高い位置から落下するとかなりの衝撃を与えることになる。
 

椰子の木に囲まれた文化村の敷地

最初の家ではココナツの調理法を見せてくれる。すりこぎぐらいの木片用具を右手に持ち、左手でココナツの実を持ってコツンと木片でひと叩きすると、きれいに実が割れる。そこからジュ−スを取り出して鍋に集め、それを煮詰めて油脂を取り出すという。これは料理その他に使うそうだ。そして、割れたココナツの実の内側に付いている白色の内皮を器具で削り取り、これを絞ってココナツミルクにしてみせる。
 

椰子の実と生活用具


ココナツの実の白い内皮をそぎ落としている

次の家屋は製塩作業場である。海辺から海水を汲み取り、それを大鍋に入れてカマドで煮詰める。すると自然の素朴な塩ができあがる。ここではそのカマドを見るだけである。次の家ではロ−プ作りである。葉っぱの繊維でできた細紐3本をより合わせて太い1本のロ−プを作りあげる。その作り方が単純素朴で面白い。
 

この鍋で海水を煮詰めて塩をつくる


ロープをよっているところ

3本の細紐を別々の棒に結んで引っかけ、それを反対側の柱の棒に通してハンドルで回転する。その時、他の一人が二股木を写真のように細紐の間に差し込んで、うまくよりあがるように添えてやるのである。こうしてできあがったロ−プは強固なもので、かなりの重量で引っ張っても切れそうにない。
 

これらの作業を通して古代チャモロ人の生活スタイルの一端を垣間見たわけだが、実際に住まうモデル家屋が設けられていないのが残念である。敷地の片隅に生っているバナナの房を眺めながら文化村を後にする。
 

おいしそうなバナナ

タロフォフォの滝と横井洞窟
ここからバスはメインル−トを5kmほど北上し、その地点から左に折れてタロフォフォの滝を目指す。4kmほど奥地へ入って行くと、この地では珍しい滝に出る。ここは元日本軍兵士横井庄一さんが終戦も知らずに28年間自作の洞窟に住み暮らしていた場所でも知られている。間もなくするとロ−プウェ−のステ−ションに到着する。意外や意外、こんな奥地の辺ぴなところに、ロ−プウェ−があるとは〜! ステーション前には数頭のイノブタが遊んでいる。
 

イノブタのお散歩

このロ−プウェ−は小さなゴンドラが数台ぶら下がっており、これに乗って順次滝まで下っていく。ゴンドラからジャングルの斜面を眺めながら下って行くと、その途中に細いタロフォフォ川が現れる。


ロープウェーのゴンドラ


ジャングルの上を下っていく

ここは谷間になっているので、その深さにひやりとさせられる。川を渡り始めると川幅いっぱいに流れ落ちる滝が姿を表わす。これがタロフォフォの滝である。この滝は下流にもあって三段に分かれており、そこが観光ポイントになっている。
 

谷底を流れるタロフォフォ川


二段目の滝が見えてきた

数分で終点駅に着いて降りると、目の前には三段目の大きな滝がしぶきをあげて流れ落ちている。


これが三段目の滝

少し下流に移動すると滝の展望所になっている岸辺に出る。そこから滝を真正面に眺めることができる。滝の幅は20m、高さ9mあるのだが高さが足りず、それだけ豪快さに欠けるといえる。しかし、淡路島ほどのこの島で、これだけの滝が見られれば文句なしであろう。この写真の滝は、削岩工事をして滝の流れをなだらかにしたという。



正面から眺めたところ。左端に吊り橋がある。




ここには川を横切る吊橋が2ヶ所に設けられており、揺れる橋を歩きながら結構スリル感を楽しむことができる。


向こうに見えるのが吊り橋


揺れながら吊り橋を渡る

ここを渡って向こう岸に上ると、そこには日本人経営の売店があり、飲物や土産品などを売っている。また、その横には横井さんの資料を展示した小さな記念館がある。特に注目を引くのは自製の衣服類や飯ごうの展示である。葉っぱの繊維を紡いで作ったと思われる立派な衣服には驚かされる。彼はもともと仕立て屋さんだったそうだから、得意だったのだろう。痛んだ飯ごうが今でも当時の様子を生々しく物語っている。
 

横井さんの手づくりの衣服と飯ごう

ここから150mほど下流のほうに下りた所に、横井さんが28年間住んでいた洞窟がある。そこまで写真のような草むらの道を歩いて行くのだが、意外にも運賃1ドルで珍しいトロッコ電車が洞窟まで往復している。電車はすぐに出そうにないので、歩いてみよう。てくてく歩き下って行くと、その先の地面に掘られた洞窟の小さな穴が見える。覗いてみると、今はほとんど土砂で埋まって中は見えない。
 

ここからトロッコが走る








 ジャングルに囲まれた細道を
 通って行く















横井洞窟の規模
発見されるまでのジャングル生活の間に、7ヶ所を転々と移動しながら穴を掘り住んだという。今、われわれが見ている洞窟は最後のものらしく、未完成の状態だったという。奥の竹林の中に巧妙に作られた横井洞穴は、深さ2.5m、奥行き3m、天井の高さは1mで、奥の部分に通気口まで作られている。入口の手前にトイレの穴、最奥部に棚が設けられている。天井が低くて窮屈そうだが、しゃがんで過ごすには十分のようである。この狭く暗い空間の中で飢えと恐怖と孤独に耐えながら27年間も生き抜いた彼の知恵と強靱な精神力には、想像を絶するものがある。
 







 発見された当時の洞窟
 (絵葉書より転載)















洞窟内の様子

発見までの経緯
彼が発見されるまでのいきさつは、こうである。戦争当時の配属は第29師団で食料・弾薬の運搬部隊に所属していた。昭和19年、米軍がグアムに上陸、圧倒的な兵器の前に日本軍は敗走。投降を呼びかける米軍に当時の指揮官佐藤少佐はこれを受け入れたが、不幸にも横井さんの部隊は佐藤少佐の直接指揮下になかったため、投降指令の伝達が伝わらなかった。それを知らない横井さんは2人の部下と共にジャングルの奥深くに潜むことになる。
 

そのうち2人の部下はいずれも病死したらしく、一人で転々と移動しながら暮らすことに。そして昭和47年2月2日午後2時15分、タロフォフォの川にうなぎ取りに来ていた横井さんを猪狩りに来ていた住民に発見される。斜面を逃げる横井さんの足を掴んで取り押さえたという。そして直ちに村長宅に連れて行き、日本語の話せる者を呼んで話を聞き、初めて日本兵と分かったらしい。終戦は米軍が落とした宣伝ビラで知っていたらしく、もし姿を現したら軍法会議で処刑されるとの恐れから身を隠していたという。
 

それからすぐに病院へ運ばれて治療を受け、退院後は故郷の名古屋に帰国し、その後素敵な奥さんと結婚して幸せに暮らすことに。74年には参議院選挙にも出馬したが、97年に心臓発作で死去。享年82歳であった。こうして戦争の犠牲を一身に背負いながら、数奇な人生を終えられたのである。
 

今ではこの場所はグアム南部めぐりの主要な観光ポイントとなっている。この島では最大の滝がある上に、日本人にとって忘れることのできない横井洞窟があるからである。洞窟から引き返して草道を上り、売店に戻る。そこで一息ついてロ−プウェ−に戻ろうとすると、突然スコ−ルがやってくる。かなりどしゃぶりの雨で、たちまち今戻ってきた道はぬかるんでしまう。きわどいタイミングで、この後であればとてもあの草道を下ることはできなかっただろう。  


クラブハウスで昼食
しばらく雨宿りしているうちに雨は止み、今度はもう一つの吊り橋を渡ってロ−プウェ−に戻る。ここから一気に上部のステ−ションに戻ってバスへ乗り移る。この後はランチタイムとなり、メイン道路に戻って北上を続ける。その途中から内陸部へ入り込み、タロフォフォ・ゴルフ・リゾ−トに向かう。そこにはしょうしゃなクラブハウスがあり、すでに用意されたテ−ブルに案内されて席に着く。ここでもほやほやの新婚さんと同席となり、またもや“新婚さんいらっしゃい”の司会役を勤める羽目に。
 

おしゃれな感じのクラブハウス

二人は和歌山市出身で、式を挙げたその足で新婚旅行に旅立ったという。たまたま私も和歌山のことはよく知っているので話がはずみ、和気相合の食事となる。ランチは珍しい和食で、数種類の品が御重に詰め合わされた弁当である。ご飯もなかなかのもので、日本米に遜色はなく、みんなおいしくいただける。ガイドさんによれば、この和食弁当はなかなか評判がいいのだという。デザ−トにコ−ヒ−をもらい、久々に満ち足りた食事となる。この昼食代はツア−代金75ドルに含まれている。
 

太平洋戦没者慰霊公園
ランチの後、バスはさらに北上しながらハマモト・トロピカル・フル−ツ・ワ−ルドの前を通過し、再び海岸線に出る。ここからどんどん北上し、遠くにグアム大学を見ながら島の北端を目指す。かなり走ったところでジ−ゴにある太平洋戦没者慰霊公園に向かう。メイン道路から少し入り込んだ場所で、人気のない静かな公園が広がっている。手前でバスを下車して慰霊碑へ向かう。
 

このジ−ゴから北東にかけては、太平洋戦争時、日米の激戦地となった地域らしく、第二次大戦で戦没した日本人、アメリカ人、ミクロネシア諸島の人々など50万の慰霊を祀るための祈念公園が設けられ、最奥部には高さ15mの祈念の塔が建立されている。敷地の左手には仏陀を祀った小さな寺院があり、線香も用意されてくゆらされている。堂内に置かれたガラスケ−スの中には錆ついた日本兵の遺品が悲しく陳列されている。慰霊塔とこの仏陀に合掌して、バスの中に駆け込む。ここでもシャワ−が降り始めたのだ。
 

戦没者慰霊公園。右奥に見えるのが慰霊塔、左が寺院。

バスのトラブル
ここを最後に、バスは最北端のアンダ−ソン空軍基地の方へ北上し、基地のゲ−トを眺めながら左にカ−ブすると、今度はタモン湾を目指して南下し始める。ところがここでトラブル発生。なんとバスの後部エンジンから発煙しているのをドライバ−が発見。すぐに路傍に寄せてストップする。ここで別の車両を寄越すように連絡し、半時間後にやって来たバスに乗り換えて再出発する。珍しいトラブルがあるものだ。とにかく延焼には至らず安堵する。
 

ホテル帰着
これからバスはマイクロネシア・モ−ルに向かい、そこで希望者を降ろして他はホテルまで送ってくれる。こうして朝8時過ぎに出発した島内一周観光は4時に帰着し、約8時間足らずのツア−は無事終了となる。終わってみれば、なんだか戦争の爪痕の印象ばかりが強く、島内の慰霊の旅でもあるような気がしてならない。戦争体験者の私にとっては、安穏な島内めぐりの観光にひたってはいられない心痛む旅となった。
 

ラーメンの夕食
部屋に戻るとベッドに横たわり、休息の時間とする。6時を過ぎたころ、ごそごそとベッドから起きだし、夕食取りに例のplazaビルへ出かける。今夕はラ−メンを味わってみよう。二階のフ−ドコ−トの一番手前に構えるラ−メン店だが、いまは日本人客で賑わっている。この店のメインはしょうゆラ−メンだが、メニュ−を見ると「九州ラ−メン」の文字が見える。そこで、これはトンコツス−プなのかを確かめると、その通りだという。ということで、これに決まりだ。
 

これにご飯もほしいと、いなり寿司2個を注文し、いただく。できあがった九州ラ−メンは確かにトンコツ味で、なかなかのものである。これだけの味のラ−メンがこの地で食べられたら、日本人には言うことないだろう。フィリピンから来たという若い男の店員が顔をのぞかせたので、少し尋ねてみる。

「なかなかおいしいよ。ラ−メンの修業は日本でしたの?」
「いいえ、この店で店長から教えてもらっています。」
「店長さんは日本で修業したの?」
「はい、3年間日本で修業して、この店に来たのです。」
「東京に同じ名前の店があるけど、その支店になるの?」
「それはよく知りません。」
「日本に行ったことある?」
「いいえ、まだなんです。お金を貯めてぜひ行きたいです。」
 

こんな会話を交わしながら食事を終わる。さすがに汗びっしょりになりながら、九州ラ−メンの代金7.5ドルといなり寿司の代金を払って階下へ下りる。ここでも例によって、バニラアイスクリ−ムを買い、デザ−トとする。これで最後の夕食も終わり、あとは部屋に戻ってやすむばかりだ。
 

明日の帰国便は朝の6時55分発。それに合わせてホテルへの出迎えが早朝4時半となっている。なんと早いことだ。それだと1時間前の3時半には起床しなくてはいけない。そんなことを思いながら、なんとなく落ち着かない雰囲気で、グアム最後の夜を過ごす。


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