坂本竜馬の足跡in NAGASAKi
鎖国時代の唯一の窓 ひなびた一漁村に過ぎなかった長崎が元亀元年(1570)に天然の良港として長崎の入江が開港されました。その後、寛永12年(1635)には長崎だけが貿易港として限定され、翌年には出島を築いてポルトガル人を収容しました。島原の乱が起こると最もキリスト教色が強かったポルトガルとの貿易を禁止、平戸のオランダ商館を出島に移して完全な鎖国体制を完成しました。これによって長崎は、鎖国時代唯一の世界に開かれた窓として経済的、文化的に独自の繁栄と発展を成し遂げ、異国情緒豊かな町となったのです。 坂本竜馬のこと そんな歴史的背景をもつ長崎に、風雲急を告げる幕末の志士たちの一人として長崎を訪れたのが歴史に名高い坂本竜馬なのです。 彼の生涯は1835年〜1867年の間のわずか33年。あまりにも若くして非業の最期を遂げることになるわけですが、彼は幕末の風雲児として東奔西走した幕末土佐藩の志士であることは、つとに有名です。そして、日本最初のカンパニー・亀山社中の設立をはじめ、薩長同盟の周旋、大政奉還などに大きな役割を果たしました。 亀山社中 「さて、御一行の仮陣屋ですが」と旅館に入ると、長崎の薩摩藩士が竜馬にいった。「長崎は土地が狭く、手ごろな家屋がなかなかみつかりません。そこであの岡に」と障子をあけ、港の南側にのびのびとひろがっている亀の背のような岡を指さし、「一つ、あるのです」「ほう、あの土地は何と言います」「亀山です」日没までまだ時間がありそうだから、竜馬はさっそく検分に出かけた。(中略)竜馬はこの家屋が気に入り、自分たちの団体名もとりあえず、「亀山社中」と名づけた。−−司馬遼太郎「竜馬がゆく」怒涛編より引用−− こうして竜馬は、自分たちの理想を実現させるための結社をこの地に創ったわけですが、これがいわゆる日本最初の商社・亀山社中(のちの海援隊)なのです。慶応元年(1865)のことです。龍馬は、この亀山社中を足がかりにして、犬猿の仲だった薩摩藩と長州藩を結び付ける「薩長同盟」を成し遂げました。(翌慶応2年(1866) この同盟の結成により、200年以上続いた徳川幕府を倒して天皇中心の政府をつくろうとする「尊王倒幕」運動が本格的になります。そして、慶応3年(1867)、第15代将軍徳川慶喜は、政権を天皇に返すという大政奉還を行いましたが、これも龍馬の発案によるものでした。(この項、「亀山社中ば活かす会」HPより転載) もう少し経緯を見ますと、幕府の直轄施設・神戸海軍操練所に学んでいた生徒の一部と、これに加えて特に勝海舟の影響を大きく受けた坂本龍馬を筆頭とする一団がいたのですが、それが神戸海軍操練所の解散をきっかけに、これが母体となって後に長崎・亀山の地へ結成したのが亀山社中(亀山隊)というわけです。その社中が後に海援隊の中心となりました。この海援隊は亀山社中(亀山隊)時代を加えても、慶応元年(1865)閏5月から慶応4年(明治元年・1868)4月までの約3年間にわたる比較的短期間の活動でした。 竜馬は1865(慶応元)年閏5月ごろ、薩摩藩の援助で長崎に貿易結社を設立したのですが、この結社は宿舎の所在地から「亀山社中」と呼ばれ、薩長両藩の物資を調達・運搬することで、薩長両藩の和解の糸口を作ったとされています。この社中(=人の集まり・結社の意味)は、慶応元年(1865)閏5月に坂本龍馬が中心となって組織した私設のもので、海軍・商社的性格を持った浪士結社でした。 亀山社中の目的 当初は薩摩藩の庇護の下に、交易の仲介や物資の運搬等で利益を得るのを目的としながら航海術の習得に努め、その一方で国事に奔走していました。社中の目的は、神戸海軍操練所時代に考えていたことを実現するために貿易を行い、商社をつくり海軍・航海の技術を習得することでしたが、最大の目的はこれらのビジネス活動を通じて薩長の手を握らせるとこでありました。社中20名余りは、制服というべき白袴を身につけていたので「亀山の白袴」と言われていたそうです。 海援隊へ改変 その後、多くの難題が発生し、亀山社中の運営は困難を極めました。やがて、経済的に行き詰まり、67(慶応3)年4月に土佐藩の援助を受けることになって名称を「海援隊」と改めました。龍馬は脱藩の罪を許されて隊長に任ぜられ、隊士22人、水夫30数人の構成でした。こうして結局、亀山社中は坂本龍馬の理想を実現することの無いままに、慶応3年(1867)4月、土佐藩の支配下に入り、海援隊として改編されたのです。本部は長崎の小曽根家の別邸に置かれ、主要隊士は合計26名となり、これに水夫・火夫等が加わって総員50名程度だったと推測されています。 竜馬の死後 海援隊は慶応3年(1867)4月に発足し活躍していたが、坂本龍馬が凶刃に倒れて以降はその求心力を失って業績ふるわず、長崎派と塩飽派の二派に分裂、慶応4年(9月8日に明治と改元)閏4月に土佐藩の命により解散しました。 龍馬死後、土佐藩士・後藤象二郎が「海援隊」を引き継いで「土佐商会」とし、その主任・岩崎弥太郎(1834〜1885年)がその後、「九十九商会」を経て順次発展させ、郵便汽船三菱会社(後の三菱財閥、日本郵船)となりました。(以上の項、「Captain Fleet」より一部を引用) 「土佐商会跡」の石碑。浜の町電停の真ん前にある。 電車の線路わきに立っています この石碑の真ん前は長崎の中心街 浜の町商店街のアーケードが見える 「亀山社中」跡へのご案内 それでは以上の歴史的背景を念頭に置きながら、竜馬らが若き情熱を傾注した亀山社中の跡を一緒に訪ねることにしましょう。地図にありますように、幕末史ゆかりの散策路である「竜馬がゆく道」に沿って行くことにします。 ![]() 赤線が「竜馬通り」 この散策路は日本最古の石橋として有名な「眼鏡橋」が起点となっています。この眼鏡橋(05年3月現在、中島川暗渠工事のため通行禁止になっています。あと1年後ぐらいには完成予定です。)へは電停の「公会堂前」、または「賑橋」からそれぞれすぐの所にあります。 眼鏡橋に出ると、ここを渡って風頭山(かざがしらやま)の方に向かって200mほど真っ直ぐに通りを歩いて行きます。途中、商店街の中通りを横切り、山裾に向かいます。すると、その突き当たりに10軒ほどのお寺が並ぶ寺町通りに出ます。これを左に折れて5軒のお寺を通り過ぎて行くと深崇寺に至ります。その次には禅林寺が続きますが、この両寺の間に「竜馬通り」の坂道階段が出てきます。その入口には「竜馬通り」の標柱があります。 ここが「竜馬通り」の起点 右側は深崇寺、左側は禅林寺 ここはお寺が並ぶ寺町通り。左手のポールのところから竜馬通りは始まる。 ここからが階段の連続になります。これは長崎の街の特色の一つですから、辛抱してお上りください。平地に住み慣れた方々には、ちょっとしんどいかもしれません。この竜馬通りは、近年になって石段や石畳を敷き直したりして整備されたもので、感じの良い坂道階段に変身しています。この道は住民の生活道路でもあります。 いよいよ竜馬通りを上って行きます。その両側には墓地が広がっており、それを眺めながらどんどん上りあがって行きます。その先には住宅が階段状に建ち並んでいます。その途中の電柱には「ようこそおいでました。竜馬」の歓迎板が掲げられており、なんだか早くも竜馬に出会ったような気分になります。この手づくりの表示板がなんとも親しみを増してくれます。 左右には墓地が見えます 「ようこそおいでました。竜馬」の歓迎板が さらに細い階段路地を上って行きます。かなり息がはずんできます。その途中に、今度は「この坂で竜馬もみたか青春の夢」という表示板が現れます。う〜ん、なるほど・・・、その昔、竜馬が通った路をいま上っているのだという実感がわいてきます。 「この坂で竜馬もみたか青春の夢」の表示板 彼はどんな思いを抱きながら、この階段を往き来したのだろう・・・そんな思いを馳せながら、ここから一段と急な階段をさらに上って行きます。かなり息も切れてきます。額に汗もにじんできます。 すると目の前に「汗もまた竜馬ととものここちよさ」の案内板が現れます。なかなか心憎いばかりの演出で、ついくすりと笑いたくなります。そして、その横に「ようこそ、亀山社中へ60m」の指示板が掲げられています。これを見て、やれやれという気持ちになり、と同時にどんなところなのかという期待感がわきあがって、疲れを吹き飛ばしてくれます。 「汗もまた竜馬ととものここちよさ」の案内板と 「ようこそ、亀山社中へ60m」の指示板 ここから気合を入れ直してさらに上ると、「もうじきバイ、亀山社中はすぐそこバイ」の案内板が現れ、やっと到着かなという思いにさせられます。 「もうじきバイ、亀山社中はすぐそこバイ」の案内板が・・・ そしてもう一息階段を上ると、「おつかれさまです。亀山社中は左です。」の案内指示板が見えてきます。これでやっと到着だ〜!とほっとした気分になります。その掲示板の横には「坂本竜馬の銅像へ500m」の表示板も出ています。それは後回しにして、まずは亀山社中へ急ぎましょう。あっ、そうそう、ここまで上るのに約200段の階段があります。ほんとにお疲れさまです。 「おつかれさまです。亀山社中は左です。」の案内指示板 その右側には「坂本竜馬の銅像へ500m」の表示板 そこで、この表示板の案内どおりに、分岐点を左に入って行きます。するとすぐ前方右手に鉄柱の灯篭と石柱が見えてきます。ここが「亀山社中」の跡なのです。 鉄柱灯篭の所が亀山社中の入口 分岐点から10mほど進むと、邸宅門の前に出ます。その左手に「亀山社中の跡」の石柱が立っています。ここから古びた門をくぐり、石段を7段上って邸内に入ります。そこにはやや手狭な植え込みの庭があります。 「亀山社中の跡」の石柱と入口門 亀山社中の邸宅門 その左手に屋敷の玄関があります。その裏手には、小型の竜馬像が置かれているのが見えます。裏へ回って見ると、銅像の横に古井戸が見えます。今は使われていないようですが、使っても良いようです。これも竜馬ゆかりの井戸で、社中の同士たちが朝な夕なに洗顔や湯浴みに使ったそうなのです。 左手に玄関が見える。その奥には竜馬の像が見える。 竜馬の像と古井戸 これが古井戸 古井戸についての説明看板 玄関に戻って、いよいよ屋内に入ってみましょう。玄関外の壁には写真のように亀山社中についての簡単な説明板が掲げられています。 玄関入口左手に掲示されている亀山社中の説明板 玄関入口に立つと、狭い上がりがまちの正面には等身大の竜馬の大写真がで〜んと据えられています。この写真の側で立ちながら彼と背比べをするのもいい思い出になることでしょう。彼の身長は173cmだそうで、当時としては大男の部類に入るのではないでしょうか。 玄関あがりがまちに置かれた 等身大の竜馬の写真 左下のカメの横には「ようおいでました。さ、おあが んませ。」の表示板が置かれている。 玄関横の壁には、「亀山社中」の銘入りの御用ちょうちんが置かれて雰囲気を盛り上げています。床の上には、「ようおいでました。さ、おあがんませ。」の表示板が置かれ、入室を歓迎してくれます。 玄関の壁には「亀山社中」の銘入りちょうちんが・・・ 玄関を上がって中に入ると、すぐに8畳の間が控えています。小さな床の間とお縁がついたこの部屋は当時のままの状態だそうで、畳が入れ替わっているだけだそうです。 上がってすぐの8畳の間。竜馬時代そのままに残っている。 この部屋の床の間横にも大きな竜馬の坐像写真が置かれています。玄関の立像やこの坐像の写真は、これも幕末から明治にかけて写真術を学び、わが国の<写真の祖>として尊敬されている「上野彦馬」が撮影したものです。彼は日本でその写真術の草分け的存在で、長崎で写真館を開業し、後年、日本最初のプロカメラマン(職業写真師)と呼ばれるようになりました。 竜馬の坐像大写真 上野彦馬の撮影 24歳となった彦馬は、ようやく念願が叶い、長崎の中島川畔に「上野撮影局」という写真館をオープンしました。そしてこのスタジオで、坂本龍馬、高杉晋作、桂小五郎、伊藤俊輔といった幕末のヒーローたちが、彦馬の手によって撮影されることになったのです。こうして竜馬の写真も彼の手によって撮影されたものが、今も現存しているのです。このほか長崎には、医学のシーボルト、商社のグラバーなど、日本の夜明けに活躍貢献した多彩な人物がいたのです。 この8畳の部屋の左手中央には柱があるのですが、これが“もたれの柱”といって、竜馬がよく背をもたせかけていた柱だそうです。今は訪れる観光客のよい記念写真の背景に使われています。その写真用に、ちゃんと刀やちょうちんまで用意されているのが何とも心憎いじゃありませんか。多くの人がこうして柱にもたれて記念写真を撮るものだから、自ずと柱はてかてかに磨かれて光っています。 今日はたまたま京都から訪れたというナイスカップルにモデルになってもらいました。写真のように立て膝をしながら刀を持つのが竜馬スタイルのようです。なかなかいい記念の写真が撮れました。「私たちの写真が全国に披露されるのですか?」とナイスカップルは恥らいながら喜んでいました。彼に紋付き袴を着てもらったら、志士の雰囲気ぴったりの感じでしょう。じっくりと、見てあげてください。 モデルになってもらった京都のナイスカップル 背後の柱が“もたれの柱” この8畳の間に続いて手前に2部屋があります。いちばん奥の部屋の障子や窓一面には、幕末ゆかりの志士たちや外国人たちの古写真がいっぱい展示されています。そして次の間には、竜馬や志士たちの写真が障子一面に展示されています。志士たちに詳しい方なら、垂涎の写真なのかもしれません。これらの写真は、いずれも上野彦馬の撮影によるものと思われます。 奥の部屋には志士たちや関係外国人たちの古写真がいっぱい 中の間には竜馬をはじめ志士たちの古写真が・・・ 竜馬の立像写真 ここで少し、この「亀山社中」跡の保存維持と啓蒙活動にひごろ活動されている市民ボランティアの「亀山社中ば活かす会」のことについて触れておきましょう。この会は平成元年に設立されたもので、針屋 武士会長さんをはじめ約140人のメンバーで構成され、亀山社中の遺構の再生利用と、その歴史的価値を再認識し、長崎の活性化につなげようとさまざまな活動を行っています。会員のみなさんは、それぞれ自営業、サラリーマン、公務員、学生、主婦など多様な方々です。 この亀山社中跡の邸宅は個人所有のものですが、本会がそれを借用する形で会のメンバーによって公開を行っています。メンバーの皆さんは、それぞれ仕事をお持ちのため毎日の公開は行われておりません。そのため:・・・ 公開日時:土曜日、日曜日及び祝日のみ 午前10時から正午まで 午後1時から午後3時まで ☆年末年始(12/29 〜 1/3)は休み ◎急告! 「亀山社中」跡は都合により06年3月18日までをもって閉館され ることになりました。実に残念なことです。 ◎再急告! 前記のとおり、閉館となっていました「亀山社中」ですが、その後、各方面からの再開の要望が強く、これを受けて長崎市が所有者と交渉した結果、来年度(09年度)から再開されることになりました。めでたし、めでたし・・・です。(08年9月6日記) 連絡先 :095-828-1454 亀山社中跡 (公開日以外の見学も随時受付けていますのでお問い合わせください。なお、都合により公開できない場合もありますので、あらかじめご了承ください。) となっています。ということで、ウィークデーは閉館になっていますので、ご注意ください。 私が訪れた時はたまたま同会の山下兼俊副会長さんがおられたので、記念撮影をお願いしまた。これが次の写真ですが、なかなかいい写真が撮れたと思っております。早速、A4サイズにプリントしてお持ちしました。実は、この副会長さんが、あの階段のところどころに表示されていた味のある句を作られた方なのです。 「亀山社中ば活かす会」の副会長 山下兼俊さん 竜馬の写真を背景にハッピ姿が決まっています 「竜馬のぶーつ」 副会長さんの撮影を終わると、邸内を後にし、「竜馬のぶーつ」に向かいます。これは社中の門を出て右手へ10mほど進んだ所にあり、そこから長崎の市街の一部が見下ろせるようになっています。これにはこんないきさつがあるのです。土佐の下級武士である郷士の家に生まれた竜馬は、ぞうりしか履けなかったそうです。それが自由の地長崎に来て初めてブーツを履き、大いに張り切ったそうです。その意味で、彼が日本で最初にブーツを履いた男といわれるそうです。 「竜馬のぶーつ」の説明板 路地から突き出たところに設置されている ブロンズ製のぶーつの前には操舵輪が・・・ 市街を見下ろす位置に置かれている これにちなんで、亀山社中創設130年の記念事業として、平成7年10月に設置されたものなのです。写真のように大きなブロンズ製のブーツで、実際にそのまま履けるようになっています。このブーツを履き、前に設置されたこれもブロンズ製の操舵輪を握りしめれば、竜馬が抱いた夢と希望が伝わってくるような感じがします。ここを訪れた際には、ぜひこのブーツを履いて竜馬に思いを馳せてみてください。眼下に見下ろす景観は、坂の町長崎の特徴をよく現しています。 |
ぶーつの設置場所から眺めた市街の風景。正面向こうの斜面に見える森の中に長崎の総氏神諏訪神社がる。 |
(次ページへつづく・・・) |